高 倉
由 来 口碑によれば高倉院の皇子某に御供して百川に来りしが、第一子は徳合に止まり
池亀氏の祖となり、第二子は仙納に池亀として止まり、源重信は第三子と高倉に移
り池亀家の祖となれり、其正司馬より直接分家せしもの四郎兵衛、与三右衛門、彦
左衛門、四郎左衛門の四戸あり、其宗家は百五六十年前にたえたけれども其五輪の
塔婆は今にあり、橋立家は後亀山天皇の御宇丹後の国天の橋立より孫兵衛(武士か
)と云ふもの移住せるを祖とす。
養和の頃天子の御因縁によって村名を高倉と号す云々と云って皇妃放屁によって
当地に配流された伝説がある。(西頸城郡誌より)
熊野大神宮
祭 神 速玉男命、事解男命
社 格 大正九年十一月村社に列格する
由 来 往古、字母袋という所に鎮座していたが、大同年間以後、鶉石惣社母袋大権現といい、
たまたま飢餓にあい、人々が困苦甚だしく、郷土を捨て、四方に離散したため、
東方の護王峰に奉還後、現在のところに建立して、熊野三社権現と称し、文化
十一年に、熊野大神宮と改称した。(西頸城郡誌より)
吉祥寺
宗 派 曹洞宗、禅長院末
山 号 若宮山
本 尊 正観音(木像、寸二尺余)
由 来 慶長五年に僧文朴が開いた寺とされている(西頸城郡誌より)
千本坂
由 来 下倉から高倉に至る道は、急坂である。昔からこの坂を千本坂と呼んでいる。
往時のこと、高倉の吉祥寺の僧が、この坂へさしかかると、決まったように
懺法経を読みながら登った。経文が終わる頃、ようやく坂も登りきるのであった。
いつとなく懺法坂と呼んだのが、千本坂に訛ったものだという。(能生谷村誌より)